August 09, 2013
つきまとう女【後編】
俺は全力で走った。
致死率100%と言われるドッペルゲンガーから逃げる為に。
頼みの綱のジョンは居ない。周りに居るのは敵ばかりだ。
狭いビルの屋上、逃げ場など無かった。
俺は出入り口のノブを回した。鍵がかけられている。ビクともしない。
後方には俺が居る。俺に触れたら俺は死ぬ。
「おいおい、もういいだろう!?手間取らせんじゃねぇよ!!」
巨躯の男が、苛立つ感情を剥き出しにして怒鳴る。
俺が迫ってくる。俺はこの時、必死に考えた。逃げる方法を。助かる方法を。
俺は屋上のフェンスを乗り越えた。
「これは夢だ。夢なんだ。現実じゃない」
俺は自分に言い聞かせた。目前には奈落の光景が見える。思ったより高い。
後方を振り返ると、俺がゆっくりと歩いてくる。
その時、不意にキチガイ女と眼が合った。
女は笑ってやがった。俺の中に怒りがこみ上げて来る。
生きるんだ。俺は絶対に死なない。絶対に生きるんだ。
俺は雄叫びを上げた。飛び降りてやる。ここから飛び降りてやる。
「ヘイ!!確かにここは現実じゃねぇけどよ!!
落ちればそれなりに痛いぜ!?お前、それに耐えられるのか!?」
巨躯の男が俺に問いかける。
「絶対にお前だけは許さないからな」
俺は、そう言い捨てると、ビルの屋上から飛び降りた。
激痛。それを表現するのに、この言葉以外に思いつかない。
ビルから飛び降りた俺は脚から落下し、地面に頭を叩きつけられた。
まるで蛙のように惨めに地面にへばりつく。俺の周囲に赤い血が広がる。
意識がなくならない。今まで体験したことの無いような激痛がはっきりと認識できる。
死にかけの蛙が、ひくつきながら痙攣するのと同様に、俺の体は小刻みに揺れた。
俺の視界の先に、ビルの出入り口から出てくる俺が見えた。
「来る…な…」
消え入りそうな蝋燭の如く俺は呟いた。これが精一杯の抵抗だった。
容赦なく俺は俺に近づき、俺の目前までやってきた。
俺は俺を見下ろしていた。体は痛みに支配され、もう逃げることもできない。
俺はもう一人の俺を、力の限り睨んだ。俺は俺に、負けたと思われたくなかった。
もう一人の俺はしゃがみこむと、俺の背中に手を置き、「見いつけた」と言った。
溶け込むように、俺が俺の体内に入ってきた。
完全な同化。奴の心と俺の心が一つになる感覚。
俺は俺に溶け込み、俺の心を支配した。
この瞬間、ジョンが「ドッペルゲンガーに触れられると確実に死ぬ」と言った意味が分かった。
暗闇が全身に拡がる。俺は終わった。終わったんだ。
心が引き裂かれるような、とてつもない暗闇に俺は放り出された。
負の感情が俺の中に溢れ出す。
俺は朦朧とした。生きることに希望なんて何一つとしてない。
この世に居たってどうしようもない。死んだほうが良い。
ただ死にたい。本当にそれだけだった。
なんでも良い。死ねるならロープでもガソリンでも俺にくれ。
自殺がしたい。自殺をさせてくれ。なんでもする。だから俺を自殺させてくれ。
俺はドッペルゲンガーに完全に支配されていた。
「お兄さん」
朝、ジョンに呼ばれて俺は眼が覚めた。全身が汗で濡れている。
俺は周囲を見渡した。ホテルの一室。ここは俺が居たホテルの一室だ。
俺は全身を弄った。どこにも異常はない。
ジョンがコーヒーを差し出す。
「大丈夫ですか、お兄さん?」
俺は確かにドッペルゲンガーに触れられた。でも、今は死にたいとは思わない。
俺は助かったのか?現実を俺は把握出来ずにいた。
「混乱しているみたいですね、お兄さん。もう大丈夫です。
ようやく俺にも見えました。あいつがお兄さんの敵なんですね」
ジョンの言葉に俺は驚いた。
「どういう…ことだ、ジョン?」
「お兄さんには申し訳ないと思ったのですが、お兄さんのファイアーウォールを一時的に弱めました。
案の定、敵の本丸はお兄さんに侵入してきた。狙い通りです」
俺はジョンの言葉の意味を理解し切れなかった。
「じゃあ、わざとアイツを誘き寄せたのか?」
「そうです。お兄さんには囮になってもらいました。
勿論、お兄さんの安全が第一です。その為の対策をした上で実行しました」
なにがなんだか、俺にはさっぱり理解出来なかった。
俺はコーヒーを一気に飲み干した。
「冷静になろう、ジョン。俺に何をしたって言うんだ?説明してくれ。何をしたんだ?」
ジョンはタバコに火を点けた。
「敵はお兄さんに対して分身、ドッペルゲンガーを使ってきました。
これは高度な技術を要します。敵は相当な腕の持ち主です。
でも、社長はこう推理しました。
『敵は、自分と同等の力の持ち主と出会ったことが無い』
お兄さんに対する敵の陰湿で強引なアプローチから、敵は力こそA級でも、経験は浅い人間だと推理したんです。
そこで罠を仕掛けました。
敵がお兄さんのドッペルゲンガーを使うなら、こちらもお兄さんのドッペルゲンガーを使う。
敵も、自分以外にドッペルゲンガーが作れる人間が居るとは思わなかったのでしょう。
完全に疑うことも無かったですね」
ジョンは微笑みながらそう言った。
「ドッペルゲンガー?どこが?どこら辺が?何がドッペルゲンガーなんだ?」
俺は尚もジョンに問いかける。訳が判らない。
「お兄さんが敵の作ったビルの屋上に立った時点から、お兄さんは社長の作ったドッペルゲンガーです。
流石に意識のない人形だと疑われるので、半分ほどお兄さんの意識を入れました。
お兄さんには、怖い思いをさせてしまいましたけど、
おかげで、俺と社長が見ていることに、全く気付かれませんでした。
いけますよ。社長が本丸の男の捜索に乗り出しました。
ここからが探偵の腕の見せ所です」
俺は唖然とした。そうならそうと、前もって言ってくれ。
昼、俺は一枚の食パンを前に困惑していた。
ここ暫くろくな物を食っていないのに、食欲が全く湧かない。
一枚の食パンですら今の俺には重い。
「なあ、ジョン。さっき、『社長が本丸の男の捜索に乗り出した』って言ったよな?」
スパゲティを頬張りながらジョンは答える。
「ええ。社長は朝の便で北海道に向かいました」
「北海道?」
「社長があの男に侵入して、居場所を特定したんです。
恐らくあの男も、今頃は泡食っているでしょうね。
絶対に社長からは逃げられませんよ」
「なあ、ジョン。アイツはやっぱり生きた人間なのか?
あんなことが人間に出来るものなのか?」
ジョンはスパゲティを平らげると、カレーライスに手をつけた。
「俺も驚きました。社長以外にあんなことが出来る人間は初めて見ましたよ。
あれほどの力の持ち主が、野に放たれていたなんて恐ろしい限りです」
ジョンはカレーライスを平らげると、次はカツ丼に手をつけた。
異様に次から次へとジョンは食いまくる。
「おい、ジョン。食いすぎじゃないか?」
食欲の無い俺からすると、ジョンの食う姿が異常に見える。
「これからの作業は体力要りますから、食っておかないと。
夕方までに、社長が本丸の男を押さえます」
つまり…、クライマックスですよ、お兄さん」
そう言ってジョンは優しく微笑んだ。
それを聞いた俺は、食パンにバターを塗り平らげた。
『クライマックス』。ジョンはそう言った。
社長が本丸の男を押さえ、ジョンが俺の除霊をする。
ついにあの女との戦いに、終止符が打たれようとしていた。
俺は吐きそうになりながらも、無理やり胃の中にメシを詰め込んだ。
生きるか死ぬかを超越して、俺は奴らにだけは負けたくなかった。
夕方、ジョンは俺をベッドの上に寝かせた。
「これから何が起こっても、絶対に気持ちだけは負けないで下さい。お兄さん」
ジョンの言葉に俺は強く頷いた。
気持ちだけなら、俺は絶対にあんな奴らに負けない。
ジョンは時計を見ながら深呼吸をすると、「そろそろですね」と言った。
「お兄さん、次に俺の携帯が鳴った時が合図です。
俺は一気にお兄さんに侵入します。
恐らく後ろ盾を失った女は、激しく暴れるはずです。
俺がお兄さんの所に辿り着くまで、持ち堪えて下さい」
俺はジョンの手を握った。
「信じているからな」
ジョンは真っ直ぐに俺を見つめながら頷いた。
その瞬間、ジョンの携帯の着信音が部屋中に響き渡った。
気が付くと俺は、見覚えの無い洋館らしき建物の中で、木製の椅子に座らされ、縛り付けられていた。
目の前には下った階段が見える。
俺は建物の中を見渡した。どこも古びた感じがする。
洋館の内部には、夢の中のような違和感が在った。確かに以前より弱い。
俺はゆっくりと眼を閉じた。ジョンが俺を助けてくれる。そう信じていた。
俺の後方に人の気配を感じた。
「キチガイ女か?」
俺は問いかけた。
すると後方の人の気配は、這うように俺の首に腕を巻きつけてきた。
俺は確信した。キチガイ女だ。
「お前が何故こんなことをするのか、今はもうどうでもいい。
俺はお前から逃げることばかりを考えてきた。本当に怖かった。
でも、俺はもう一人じゃない。親友が出来た。
もう、お前は怖くない」
キチガイ女は、強く俺を抱きしめた。
「一緒に居たい…」
俺は頭を横に振った。
「俺は生きている。お前は死んでいる。この差は絶対に埋まらない。
お前にはお前の欲望があるのかもしれない。
俺はそれに応える訳にはいかない。俺は生きたいんだ」
俺とキチガイ女の間に静寂が流れる。
キチガイ女は俺に抱きついたまま、静かに泣いていた。
泣いているキチガイ女に、以前のような気味の悪さは無かった。
キチガイ女の声は、前に聞いた声と変わらない。
確かにキチガイ女だった。
それでも不思議なくらいに、以前とは印象が違う。
俺は不思議だった。後ろ盾を失って暴れるかと思いきや、キチガイ女は俺に抱きつき、静かに泣いている。
「お前…もしかして…」
俺はそこまで言って言葉を呑んだ。俺にはその先の言葉が言えなかった。
その時、洋館の玄関が静かに開く。
そこにはジョンが居た。
「お兄さん、迎えに来ました」
ジョンはそう言うと階段を昇り、キチガイ女を睨む。
キチガイ女は何もすることなく、俺からゆっくり離れると、ジョンを素通りして階段を静かに降りていった。
階段の下で立ち止ったキチガイ女は、ゆっくりと振り返り俺を見つめた。
女の顔に俺は驚いた。
以前のような禍々しさは無く、キレイな顔だった。
今までとは違う、少女のような切なく悲しい表情が、俺の眼に焼き付いた。
女は踵を返し、振り返ることなく玄関の向こう側に消えていった。
「どういうことだ、あの女…」
俺は呟いた。想像した展開とはあまりにも違う幕切れだった。
「あの女の後ろ盾も、あの3人も消えていなくなりました。
もう勝ち目は無いと諦めたのでしょう。
あの女も、お兄さんの中から完全に消えました。俺たちの勝ちです」
ジョンは、この戦いの勝利宣言をした。
しかし、俺の中に歓喜の感情は無かった。
俺を椅子に縛り付けていた拘束具をジョンは外した。
椅子から立ち上がった俺の体は、不思議なくらいに軽かった。
俺とジョンは連れ添い、ゆっくりと階段を降りた。
玄関の先には、眩しい程に光が降り注いでいた。まるで希望の光だ。
俺たちは玄関の向こう側に進んだ。
その時、俺の視界の端に人影が見えた。
振り返ったその先には、俺の良く知る人物が立っていた。
「親父…」
親父は静かに頷くと、本当に優しく微笑んだ。
俺の眼からは止め処も無く涙が溢れた。親父の優しい笑顔に涙が止まらなかった。
俺は親父の前で子供のように号泣した。本当に子供のように…。
「お兄さん」
俺はジョンに呼ばれて目覚めた。
地上20階に位置する豪華なホテルの部屋。俺たちは戻ってきた。
「ああ…、長いこと悪い夢を見ていた気分だ。
でも…最後は良かったよ…。ジョン、ありがとうな」
「いえ、俺だけじゃありません。社長や親父さんも頑張りました。勿論、お兄さんも。
あの囮作戦の時、お兄さんは敵の手から逃れる為に、ビルから飛び降りましたよね。
現実じゃないと分かっていても、あんなことを普通は出来ません。
しかも、敵の本丸に向かって啖呵まで切って。
そのお兄さんの勇気があればこそですよ」
「いや、俺は…」
そう言って俺は黙り込んだ。俺は一人だったら、とっくに死んでいた。
そして、今も情けないことを考えていた。
「なあ、ジョン。あの女のことなんだが…」
ジョンは俺にコーヒーを差し出した。
「言いたいことは判ります。最後に俺もあの女に侵入しましたから…。
でも、気にしないで下さい。全部、終わったんです」
俺はコーヒーを飲みながら、窓の外に広がる夜景を眺めた。
切ない思いを振り切るように、俺は夜景を眼に焼き付けた。
その後、俺は安堵からか高熱を出し、病院に緊急入院した。
3日間程高熱に苦しんだ後、俺は奇跡的な回復を遂げ、
折れていた左腕の骨も、医者が眼を丸くする程の速さで回復した。
最悪だった体調も完全に復調し、俺は以前の健康な体を取り戻した。
入院中、ジョンが何度も見舞いに来てくれた。こいつは本当に良い奴だ。
最悪と言える騒動の中で、ジョンと出会えたことだけは神に感謝したい。
後日、俺は改めて社長にお礼を言いに行った。
相変わらずのヒステリックぶりで、
俺が感謝の言葉を述べると、
「感謝の言葉より感謝の金をよこせ!」と言ってきた。
ある意味予想通りだったので問題はない。
それから社長に、「絶対に父親の墓参りに行けよ」と言われた。
俺は久しぶりに、家族揃って親父の墓参りに行った。
久しぶりに来た親父の墓は、土埃で汚れていた。
俺は予め用意していた掃除用具を取り出し、念入りに親父の墓を磨いた。
「家族を助けてくれてありがとう。守ってくれてありがとう」
そんな気持ちを込めて念入りに磨いた。
母も姉も必死に墓を磨く俺を眺めて、何故そんなに一生懸命に磨くのかと不思議そうにしていた。
俺は母と姉の二人にも掃除道具を渡し、墓磨きに協力してもらった。
心なしか、親父の笑い声が聞こえた気がした。
その後、俺たちは家族でレストランに入った。
久しぶりの家族団欒だった。
食後に俺はトイレに入った。入り口を開け、トイレの中に入る。
そこはビルの屋上だった。
驚いた俺は周囲を見渡す。
俺の視線の先には、あの騒動の本丸の男が、フェンスに寄りかかりながらタバコを咥えていた。
「よお」
気軽な挨拶をすると男は俺に近づく。
「俺に近付くんじゃねぇ!!」
俺は怒鳴った。
「はは、怖いねぇ。そんなに怒鳴るなよ。なにも危害を加える気はねぇよ」
男は尚も俺に近づく。
「なんのつもりだ!?いったい、何しに来た!?」
怒鳴る俺を無視して、男は俺の眼前に立つと、思いがけない言葉を発した。
「事の顛末を知りたくないか?」
「事の顛末だと?」
男は俺を嘲るように微笑んだ。
「心配するな。あのオカマ社長の許可は取ってあるよ」
男は俺の胸に拳を当てた。
すると男の拳は何の手応えも無く、俺の体をすり抜けた。
「ほらな。俺からお前に何かすることは出来ないんだよ。
あのオカマにお前は完全にガードされているし、俺もあのオカマに能力の根源を握られている。
今の俺は、オカマに金玉抜かれた腑抜けなんだよ」
俺は後ずさりをした。
「俺に何を聞かせたい?」
男はどこからか椅子を取り出し、腰掛けた。
「さっきも言ったろ?事の顛末さ。
どうして俺と妹がお前を狙ったのか。何故、殺そうとしたのか。
お前には聞く権利があるんだよ」
確証は無かったが、男に害意はないように思えた。
確かに俺も、この騒動の動機と理由が知りたい。
俺の心にある霧の正体が知りたかった。
「分かった。なら聞かせてくれ。事の顛末を」
「そうこなくちゃな。わざわざ、来た甲斐が無い」
そう言うと男は、タバコを地面に捨て足で揉み消した。
「初めにお前に出会ったのは、お前がバイクで小樽に来たときだ。
確かツーリングだっけ?お前はそれをやりに来たんだ。
俺はたまたま小樽に用が有って来ていた。
その時、妹の奈々子がお前に目をつけたんだ。
何故なら、お前が奈々子にとって羨ましい存在だったからだ。
まるで光に群がる虫のように、奈々子はお前に惹き寄せられた」
俺は困惑した。
「何故俺なんだ?俺の何が羨ましかったんだ?」
「お前の中に、温かい家族の繋がりが見えたのさ。
それが奈々子には、心底羨ましかった。
俺たちの家族はな、言っちゃ何だが、クソの肥溜めそのものだった。
特に奈々子は生前、そうとうあのクソ親父に責められた。
口に出すのもおぞましいぜ。実の父親が娘を性の対象にするなんてよ。
しかも親父は極端なサドでよ。ひでぇもんだった。
だが、俺も人のことは言えねぇ。苦しむ妹を、見て見ないふりしたんだからな。
母親はとっくの昔に死んで居なかった。
だから妹にとっちゃ、俺は唯一の頼りだったんだ。それを俺は見捨てた。
面倒臭かったんだよ、正直言って。俺にはどうでもいいことだった。
奈々子にとっては絶望的だったろうよ。アイツは一人で警察に行き、助けを求めた」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
俺は男の話を遮った。
「気持ち悪くなったか?そうだろうな。クソの肥溜めの話だ。無理も無い」
男はポケットからタバコを取り出し、口に咥えた。
さっきまで人を嘲るように笑っていた男の顔は、深海のような冷たい表情だった。
話の内容よりも俺は、この男の表情に恐怖を感じていた。
「いいか?続けるぜ?」
俺は無言で頷いた。なるべく男の顔を見ないように気を付けた。
「奈々子は警察に助けを求めたが、全て無視された。
親父はクソだが、精神科医としてはエリートだった。
警察にも協力していたし、署の幹部とも仲が良かった。
奈々子は対応した警察官に、人格ごと全てを否定されて追い返されたんだよ。
更に絶望した奈々子は、遂に精神を病んで、精神病院に入院した。
しかも、親父の病院にな。
そこでも奈々子は酷い扱いを受けた。
警察に訴えた奈々子を、親父は許さなかった。
奈々子の担当の看護師に言いつけて、奈々子を毎日のように暴行させた。
信じられるか?それをやらしたのが実の父親なんだぜ?
そして奈々子は自殺した。どこからか持って来たロープで首を吊ってな。
そこで俺は初めて泣いたよ」
黙って俺は男の話を聞いていた。
男の家族と俺の家族。まるで正反対の家族だった。
「奈々子は自殺した後、この世を彷徨い、俺の所に来た。
奈々子には才能はあったが、俺のような能力はなかった。
だから、俺に復讐の話を持ちかけたんだ。俺に協力しろってな。
勿論、それを俺は断ることも出来た。
だが俺は、奈々子が死んでから初めて気付いた感情に逆らえなかった。
俺は奈々子を愛していた。自分勝手な話だがな」
「俺は奈々子に協力し、親父と警察官、それと看護師を殺した。
俺はそれで奈々子が満足すると思っていた。
だがそれは違った。
俺は霊というものに対する知識を、中途半端に持っていたに過ぎない。
どんなに復讐を遂げても、奈々子はもう死んでいる。
俺の目の前に居る悪霊と化した奈々子は、奈々子であって奈々子じゃない。
ただの情念の塊だ。情念の塊が満足して消えることなんて絶対に無い。
俺は落胆したよ。
親父も含めて3人も殺したのに、ただ奈々子の形をした悪霊が増大しただけだった。
そんな時にお前が現れた。
ただの復讐の情念の塊だったはずの奈々子が、お前に魅かれた。
俺にとっては驚きだったよ。もしかしたら、と変な希望まで持っちまった。
だが、奈々子は死んでいる。普通の生き人とは一緒に居られない」
「それで俺を殺そうと思ったのか?ふざけるな」
「ああ、今思えば愚かもいい所だ。だが、俺にとっては希望だった。
お前と居れば、奈々子は奈々子として戻れるんじゃないか、とな」
男の話に俺は納得がいかなかった。
「ただ殺すだけなら、お前には何時でも俺を殺すことは出来たはずだ。
何故すぐにやらなかった?何故あんな回りくどいことをする?」
俺は男に問いただした。男の表情に変化はない。
「単純にすぐに殺しても、霊はこの世に留まらない。すぐに消えてしまう。
苦しめて、追い詰めて、不条理を与えることで、霊はこの世に強い情念を残し、長く留まる。
お前には未来永劫、奈々子と一緒に居て欲しかった」
男の言葉に、俺は全身が震えた。
「北海道から帰ったお前は交通事故を起こし、重症を負った。
あれも俺の仕業だ。
お前の会社の人事部長の脳に侵入して、解雇通知を書かせたのも俺だ。
左腕の骨折だけ治りが遅かっただろ?あれも俺だ。
その他諸々。お前には色々、仕掛けたな」
俺は震える拳を押さえた。
「殴っても良いんだぜ?そこで我慢するのは、元サラリーマンの悲しい性か?」
俺は男の左頬を全力で殴った。男は椅子から転げ落ち、地面に平伏した。
「まあ、一発くらいは殴らせないとな…」
男はそう言うと椅子を元の位置に戻し、再び腰掛けた。
俺は怒りで全身が熱くなっていた。
「落ち着けってのは無理な話かもしれないが、話は最後まで聞け。
俺はお前に感謝しているんだ」
「感謝だと!?」
「最後にお前が奈々子と一緒に居たときの話だ。
あの時、俺はオカマの部下に押さえつけられ、床に平伏していた。
事の終わりを見届けろとオカマに言われ、俺はお前たちを見ていた。
あの時…、俺は眼前の光景に我が眼を疑った。俺は奇跡を見ていた。
ただの復讐の情念の塊だった奈々子は、そこには居なかった。
お前も見ただろ?あの奈々子が本当の奈々子だ。生前の頃の奈々子だったんだ。
アイツはただのか弱い女だった。あれが本当の奈々子の姿だったんだ。
俺は泣いた。奇跡を前に、俺は子供のように泣く事しか出来なかった。
最初は光に群がる虫のように、奈々子はお前に魅かれただけだった。
それが何時しか、本当にお前のことを好きになっちまっていたんだ」
俺は震える拳を降ろし、黙り込んだ。
「お前も薄々気付いていたんじゃないか?」
そう言う男の顔からは、深海のような冷たさが消えていた。
最後に見たあの女の顔を、俺は思い出していた。
気が付くと、俺の眼からは涙が流れていた。
「泣いてくれるのか?」
男はそう言うと静かに俯いた。
「お前は優しい男だな。あんな事をした奈々子のために泣いてくれるなんてよ。
お前は本当にしぶとい奴だった。俺はお前の勇気に驚かされ続けたよ。
そして、家族の愛情に恵まれた、優しい男だ。
今なら奈々子の気持ちが俺にも判る。俺たちは愛情に飢えていた。本当にお前が羨ましい。
奈々子は生前、誰かを好きになることなんて一度もなかった。
こんな形じゃなく、奈々子が生きている間にお前と出会えていたら…。
お前のように俺にも勇気があれば、こんなことにはならなかった」
俺は泣いた。あの女を思い、泣いていた。
あの女は敵だ。あの女が俺に何をしたのかは忘れない。
それでも、俺の眼から流れる涙は止まらなかった。
男は椅子から立ち上がると、天を仰いだ。
「俺も奈々子も、散々人を苦しめた。天国には行けねぇ。
奈々子も地獄に落ちたよ。アイツは生まれ変わっても、また辛い人生を送る。
でもよ…、もし、お前がアイツに再び出会ったなら…。その時は…」
男は踵を返し、背を向ける。
「…自分勝手にも程があるか…」
男は静かにうなだれる。
その背中には、悲しみが色濃く映し出されていた。
俺は事の顛末を知った。俺には泣くことしか出来なかった。
男とあの女の悲しい過去。俺の知らない家族の話。
全てが俺の胸に突き刺さり、涙を溢れさせていた。
俺はただただ悲しかった。
「じゃあな」
男はそう言うと、俺から離れていく。
「これから、お前はどうする気なんだ?」
俺の問いに男は足を止める。
「俺には初めから守護霊なんてものはいない。
自分の身は自分で守ってきた。
だが、俺はもう能力を封印する。
俺がお前を苦しめたように、今度は俺が苦しむ。
もう、お前とは会うこともねぇ。
俺の行き着く先は妹や親父と同じ所さ」
そう言うと男は、俺の目の前から消えた。
俺はレストランのトイレに戻ってきていた。
トイレの洗面所で泣き腫らした顔を洗った。
俺はあの男の言葉を思い出していた。
『俺の行き着く先は妹や親父と同じ所さ』
あの家族に救いは訪れないのだろうか。
一度人は道を外すと、元には戻れないのだろうか。
俺は世の無常を感じていた。
トイレから出た俺は、家族の待つテーブルに帰ってきた。
幸せな光景。あの家族は、この光景を一度も見たことは無いのだろうか。
俺の胸は切なさでいっぱいだった。
「ちょっとぉ、なにボーとしてるのよ」
姉の声に俺は我に返る。
「ああ、悪い。ちょっと考え事しててさ」
「さっきから、あんたの携帯、鳴りっ放しだったよ。
なんか、出ても悪いかなぁと思って放置してたけど」
俺は自分の携帯を見た。確かに5件も着信履歴が在る。
相手はジョンの携帯だった。
何の用だろうか。俺はリダイヤルした。
「もしもし。お兄さんですか?」
「ああ、なんだ、ジョン?何回も着信履歴が入っていたけど、急ぎの用事か?」
「いやぁ、俺がお兄さんに対して、急ぎの用事って訳じゃないんですけどね。
社長が今すぐ事務所に来いって」
「社長が!?」
俺は携帯を切ると家族に謝り、レストランを飛び出した。
社長を待たせること程怖いことは無い。
全力で走り抜け、俺は社長の待つ探偵事務所に辿り着いた。
「ご…御用件は…はぁ…はぁ…なんですか、社長…はぁ…はぁ」
社長はタバコを灰皿に押し付けた。
「はぁはぁ気持ちが悪い!先ず呼吸を整えろ馬鹿!」
俺の目の前に一杯の水が差し出された。
「お兄さん、飲んでください」
ジョンだった。
「ああ…、ありがとう。ジョン」
ジョンは優しく微笑んだ。
ジョンのくれた水を俺は一気に飲み干し、呼吸を整えた。
「良いか?とりあえず、この書類に眼を通せ」
社長の差し出した書類を俺は見た。
そこには『内定通知書』と書かれていた。
「これは…、なんですか、社長?」
俺は唐突な書類の内容に戸惑った。
「見て判らないか?お前を我が社に採用すると言っているのだ。
お前は未だに無職なのだろう?私がお前を雇ってやる」
社長の言葉に驚いた俺はジョンの顔を見る。
ジョンは笑顔でサムズアップをしていた。
「え!?いや、嬉しい!けど…。ど、どういうことですか、社長?突然で…」
「戸惑っているのか?」
社長は妖しく微笑む。
「実を言うとな。お前の敵だった、あの男に頼まれたのだ」
「あの男に!?」
俺は驚いた。あの男が社長に頼みごとを?
「私も驚いたよ。
我が社の口座にいきなり1000万円も振り込んで、お前を雇ってくれと頼み込んできた。
せめてもの罪滅ぼしとでも思ったのか。それともお前が気に入ったのか。
1000万円もあれば、どんなペーペーでも一流に育つ。
私は快諾したよ。その気持ちを受け取るかどうかは、お前次第だがな」
俺は迷うことなく、「御願いします」と言い頭を下げた。
「お前には霊能の才能が欠片しかないから、探偵として雇うことになる。
言っとくが、甘くは無いぞ。覚悟しておけよ?」
そう言うと社長は微笑んだ。ジョンも笑っていた。
俺は探偵として生きていくことを決めた。
俺の物語はここで終わる。
探偵として歩み始めた俺には、様々な出来事が起きる。
でも、それはクライアントの物語。
守秘義務の関係上、これ以上は書けない。
あの騒動で俺は強くなった気がする。
今でも時折、あの女のことを思い出す。
あの女は、今もどこかで苦しんでいるのだろうか?
もし、再びアイツと出会ったなら…俺はその時…
アイツを助けてやりたいと思う。
great_com1000 at 18:36│Comments(0)│厳選★怖い話2009
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