超厳選怖い話ランキング:つきまとう女【後編】
つきまとう女【中編】お札の家

August 09, 2013

つきまとう女【後編】


俺は全力で走った。 
致死率100%と言われるドッペルゲンガーから逃げる為に。 
頼みの綱のジョンは居ない。周りに居るのは敵ばかりだ。 
狭いビルの屋上、逃げ場など無かった。 
俺は出入り口のノブを回した。鍵がかけられている。ビクともしない。 
後方には俺が居る。俺に触れたら俺は死ぬ。
「おいおい、もういいだろう!?手間取らせんじゃねぇよ!!」
巨躯の男が、苛立つ感情を剥き出しにして怒鳴る。 
俺が迫ってくる。俺はこの時、必死に考えた。逃げる方法を。助かる方法を。 
俺は屋上のフェンスを乗り越えた。
 
「これは夢だ。夢なんだ。現実じゃない」 
俺は自分に言い聞かせた。目前には奈落の光景が見える。思ったより高い。 
後方を振り返ると、俺がゆっくりと歩いてくる。 
その時、不意にキチガイ女と眼が合った。 
女は笑ってやがった。俺の中に怒りがこみ上げて来る。 
生きるんだ。俺は絶対に死なない。絶対に生きるんだ。 
俺は雄叫びを上げた。飛び降りてやる。ここから飛び降りてやる。
「ヘイ!!確かにここは現実じゃねぇけどよ!! 
 落ちればそれなりに痛いぜ!?お前、それに耐えられるのか!?」
巨躯の男が俺に問いかける。
「絶対にお前だけは許さないからな」 
俺は、そう言い捨てると、ビルの屋上から飛び降りた。 

激痛。それを表現するのに、この言葉以外に思いつかない。 
ビルから飛び降りた俺は脚から落下し、地面に頭を叩きつけられた。 
まるで蛙のように惨めに地面にへばりつく。俺の周囲に赤い血が広がる。 
意識がなくならない。今まで体験したことの無いような激痛がはっきりと認識できる。 
死にかけの蛙が、ひくつきながら痙攣するのと同様に、俺の体は小刻みに揺れた。 
俺の視界の先に、ビルの出入り口から出てくる俺が見えた。 
「来る…な…」
消え入りそうな蝋燭の如く俺は呟いた。これが精一杯の抵抗だった。 
容赦なく俺は俺に近づき、俺の目前までやってきた。 
俺は俺を見下ろしていた。体は痛みに支配され、もう逃げることもできない。 
俺はもう一人の俺を、力の限り睨んだ。俺は俺に、負けたと思われたくなかった。 
もう一人の俺はしゃがみこむと、俺の背中に手を置き、「見いつけた」と言った。 
溶け込むように、俺が俺の体内に入ってきた。 
完全な同化。奴の心と俺の心が一つになる感覚。 
俺は俺に溶け込み、俺の心を支配した。 
この瞬間、ジョンが「ドッペルゲンガーに触れられると確実に死ぬ」と言った意味が分かった。 
暗闇が全身に拡がる。俺は終わった。終わったんだ。 

 
心が引き裂かれるような、とてつもない暗闇に俺は放り出された。 
負の感情が俺の中に溢れ出す。 
俺は朦朧とした。生きることに希望なんて何一つとしてない。 
この世に居たってどうしようもない。死んだほうが良い。 
ただ死にたい。本当にそれだけだった。 
なんでも良い。死ねるならロープでもガソリンでも俺にくれ。 
自殺がしたい。自殺をさせてくれ。なんでもする。だから俺を自殺させてくれ。 
俺はドッペルゲンガーに完全に支配されていた。 

「お兄さん」 
朝、ジョンに呼ばれて俺は眼が覚めた。全身が汗で濡れている。 
俺は周囲を見渡した。ホテルの一室。ここは俺が居たホテルの一室だ。 
俺は全身を弄った。どこにも異常はない。 
ジョンがコーヒーを差し出す。 
「大丈夫ですか、お兄さん?」 
俺は確かにドッペルゲンガーに触れられた。でも、今は死にたいとは思わない。 
俺は助かったのか?現実を俺は把握出来ずにいた。
「混乱しているみたいですね、お兄さん。もう大丈夫です。 
 
 ようやく俺にも見えました。あいつがお兄さんの敵なんですね」 
ジョンの言葉に俺は驚いた。
「どういう…ことだ、ジョン?」 
「お兄さんには申し訳ないと思ったのですが、お兄さんのファイアーウォールを一時的に弱めました。 
 案の定、敵の本丸はお兄さんに侵入してきた。狙い通りです」
俺はジョンの言葉の意味を理解し切れなかった。
「じゃあ、わざとアイツを誘き寄せたのか?」 
「そうです。お兄さんには囮になってもらいました。 
 勿論、お兄さんの安全が第一です。その為の対策をした上で実行しました」
なにがなんだか、俺にはさっぱり理解出来なかった。 

俺はコーヒーを一気に飲み干した。 
「冷静になろう、ジョン。俺に何をしたって言うんだ?説明してくれ。何をしたんだ?」
ジョンはタバコに火を点けた。 
「敵はお兄さんに対して分身、ドッペルゲンガーを使ってきました。 
 これは高度な技術を要します。敵は相当な腕の持ち主です。 
 でも、社長はこう推理しました。 
 『敵は、自分と同等の力の持ち主と出会ったことが無い』 
 お兄さんに対する敵の陰湿で強引なアプローチから、敵は力こそA級でも、経験は浅い人間だと推理したんです。
 そこで罠を仕掛けました。 
 敵がお兄さんのドッペルゲンガーを使うなら、こちらもお兄さんのドッペルゲンガーを使う。 
 敵も、自分以外にドッペルゲンガーが作れる人間が居るとは思わなかったのでしょう。 
 完全に疑うことも無かったですね」
ジョンは微笑みながらそう言った。 
「ドッペルゲンガー?どこが?どこら辺が?何がドッペルゲンガーなんだ?」
俺は尚もジョンに問いかける。訳が判らない。

 
「お兄さんが敵の作ったビルの屋上に立った時点から、お兄さんは社長の作ったドッペルゲンガーです。 
 流石に意識のない人形だと疑われるので、半分ほどお兄さんの意識を入れました。 
 お兄さんには、怖い思いをさせてしまいましたけど、
 おかげで、俺と社長が見ていることに、全く気付かれませんでした。 
 いけますよ。社長が本丸の男の捜索に乗り出しました。 
 ここからが探偵の腕の見せ所です」
俺は唖然とした。そうならそうと、前もって言ってくれ。 

昼、俺は一枚の食パンを前に困惑していた。 
ここ暫くろくな物を食っていないのに、食欲が全く湧かない。 
一枚の食パンですら今の俺には重い。 
「なあ、ジョン。さっき、『社長が本丸の男の捜索に乗り出した』って言ったよな?」
スパゲティを頬張りながらジョンは答える。 
「ええ。社長は朝の便で北海道に向かいました」 
「北海道?」 
「社長があの男に侵入して、居場所を特定したんです。 
 恐らくあの男も、今頃は泡食っているでしょうね。 
 絶対に社長からは逃げられませんよ」 
「なあ、ジョン。アイツはやっぱり生きた人間なのか? 
 あんなことが人間に出来るものなのか?」 
ジョンはスパゲティを平らげると、カレーライスに手をつけた。
「俺も驚きました。社長以外にあんなことが出来る人間は初めて見ましたよ。 
 あれほどの力の持ち主が、野に放たれていたなんて恐ろしい限りです」
ジョンはカレーライスを平らげると、次はカツ丼に手をつけた。 
異様に次から次へとジョンは食いまくる。
「おい、ジョン。食いすぎじゃないか?」
食欲の無い俺からすると、ジョンの食う姿が異常に見える。
「これからの作業は体力要りますから、食っておかないと。 
 夕方までに、社長が本丸の男を押さえます」 
 つまり…、クライマックスですよ、お兄さん」

そう言ってジョンは優しく微笑んだ。 
それを聞いた俺は、食パンにバターを塗り平らげた。 

『クライマックス』。ジョンはそう言った。 
社長が本丸の男を押さえ、ジョンが俺の除霊をする。 
ついにあの女との戦いに、終止符が打たれようとしていた。 
俺は吐きそうになりながらも、無理やり胃の中にメシを詰め込んだ。 
生きるか死ぬかを超越して、俺は奴らにだけは負けたくなかった。 

夕方、ジョンは俺をベッドの上に寝かせた。 
「これから何が起こっても、絶対に気持ちだけは負けないで下さい。お兄さん」
ジョンの言葉に俺は強く頷いた。 
気持ちだけなら、俺は絶対にあんな奴らに負けない。 
ジョンは時計を見ながら深呼吸をすると、「そろそろですね」と言った。
「お兄さん、次に俺の携帯が鳴った時が合図です。 
 俺は一気にお兄さんに侵入します。 
 恐らく後ろ盾を失った女は、激しく暴れるはずです。 
 俺がお兄さんの所に辿り着くまで、持ち堪えて下さい」
俺はジョンの手を握った。 
「信じているからな」 
ジョンは真っ直ぐに俺を見つめながら頷いた。 
その瞬間、ジョンの携帯の着信音が部屋中に響き渡った。 

気が付くと俺は、見覚えの無い洋館らしき建物の中で、木製の椅子に座らされ、縛り付けられていた。 
目の前には下った階段が見える。
俺は建物の中を見渡した。どこも古びた感じがする。 
洋館の内部には、夢の中のような違和感が在った。確かに以前より弱い。 
俺はゆっくりと眼を閉じた。ジョンが俺を助けてくれる。そう信じていた。 
俺の後方に人の気配を感じた。
「キチガイ女か?」
俺は問いかけた。 

 
すると後方の人の気配は、這うように俺の首に腕を巻きつけてきた。 
俺は確信した。キチガイ女だ。
「お前が何故こんなことをするのか、今はもうどうでもいい。 
 俺はお前から逃げることばかりを考えてきた。本当に怖かった。 
 でも、俺はもう一人じゃない。親友が出来た。 
 もう、お前は怖くない」 
キチガイ女は、強く俺を抱きしめた。
「一緒に居たい…」 
俺は頭を横に振った。 
「俺は生きている。お前は死んでいる。この差は絶対に埋まらない。 
 お前にはお前の欲望があるのかもしれない。 
 俺はそれに応える訳にはいかない。俺は生きたいんだ」

俺とキチガイ女の間に静寂が流れる。 
キチガイ女は俺に抱きついたまま、静かに泣いていた。 

泣いているキチガイ女に、以前のような気味の悪さは無かった。 
キチガイ女の声は、前に聞いた声と変わらない。 
確かにキチガイ女だった。
それでも不思議なくらいに、以前とは印象が違う。 
俺は不思議だった。後ろ盾を失って暴れるかと思いきや、キチガイ女は俺に抱きつき、静かに泣いている。 
「お前…もしかして…」 
俺はそこまで言って言葉を呑んだ。俺にはその先の言葉が言えなかった。 
その時、洋館の玄関が静かに開く。 
そこにはジョンが居た。 
「お兄さん、迎えに来ました」 
ジョンはそう言うと階段を昇り、キチガイ女を睨む。 
キチガイ女は何もすることなく、俺からゆっくり離れると、ジョンを素通りして階段を静かに降りていった。 
階段の下で立ち止ったキチガイ女は、ゆっくりと振り返り俺を見つめた。 
女の顔に俺は驚いた。
以前のような禍々しさは無く、キレイな顔だった。 
今までとは違う、少女のような切なく悲しい表情が、俺の眼に焼き付いた。 
女は踵を返し、振り返ることなく玄関の向こう側に消えていった。
「どういうことだ、あの女…」 
俺は呟いた。想像した展開とはあまりにも違う幕切れだった。
「あの女の後ろ盾も、あの3人も消えていなくなりました。 
 もう勝ち目は無いと諦めたのでしょう。 
 あの女も、お兄さんの中から完全に消えました。俺たちの勝ちです」

ジョンは、この戦いの勝利宣言をした。
しかし、俺の中に歓喜の感情は無かった。 

俺を椅子に縛り付けていた拘束具をジョンは外した。 
椅子から立ち上がった俺の体は、不思議なくらいに軽かった。 
俺とジョンは連れ添い、ゆっくりと階段を降りた。 
玄関の先には、眩しい程に光が降り注いでいた。まるで希望の光だ。 
俺たちは玄関の向こう側に進んだ。 
その時、俺の視界の端に人影が見えた。 
振り返ったその先には、俺の良く知る人物が立っていた。
「親父…」 
親父は静かに頷くと、本当に優しく微笑んだ。 

 
俺の眼からは止め処も無く涙が溢れた。親父の優しい笑顔に涙が止まらなかった。 
俺は親父の前で子供のように号泣した。本当に子供のように…。
「お兄さん」 
俺はジョンに呼ばれて目覚めた。 
地上20階に位置する豪華なホテルの部屋。俺たちは戻ってきた。 
「ああ…、長いこと悪い夢を見ていた気分だ。 
 でも…最後は良かったよ…。ジョン、ありがとうな」 
「いえ、俺だけじゃありません。社長や親父さんも頑張りました。勿論、お兄さんも。 
 あの囮作戦の時、お兄さんは敵の手から逃れる為に、ビルから飛び降りましたよね。 
 現実じゃないと分かっていても、あんなことを普通は出来ません。 
 しかも、敵の本丸に向かって啖呵まで切って。 
 そのお兄さんの勇気があればこそですよ」 
「いや、俺は…」
そう言って俺は黙り込んだ。俺は一人だったら、とっくに死んでいた。 
そして、今も情けないことを考えていた。 

「なあ、ジョン。あの女のことなんだが…」
ジョンは俺にコーヒーを差し出した。 
「言いたいことは判ります。最後に俺もあの女に侵入しましたから…。 
 でも、気にしないで下さい。全部、終わったんです」
俺はコーヒーを飲みながら、窓の外に広がる夜景を眺めた。 
切ない思いを振り切るように、俺は夜景を眼に焼き付けた。 

その後、俺は安堵からか高熱を出し、病院に緊急入院した。 
3日間程高熱に苦しんだ後、俺は奇跡的な回復を遂げ、
折れていた左腕の骨も、医者が眼を丸くする程の速さで回復した。 
最悪だった体調も完全に復調し、俺は以前の健康な体を取り戻した。 

入院中、ジョンが何度も見舞いに来てくれた。こいつは本当に良い奴だ。 
最悪と言える騒動の中で、ジョンと出会えたことだけは神に感謝したい。 

後日、俺は改めて社長にお礼を言いに行った。 
相変わらずのヒステリックぶりで、
俺が感謝の言葉を述べると、
「感謝の言葉より感謝の金をよこせ!」と言ってきた。
ある意味予想通りだったので問題はない。 
それから社長に、「絶対に父親の墓参りに行けよ」と言われた。 
俺は久しぶりに、家族揃って親父の墓参りに行った。 

久しぶりに来た親父の墓は、土埃で汚れていた。 
俺は予め用意していた掃除用具を取り出し、念入りに親父の墓を磨いた。
「家族を助けてくれてありがとう。守ってくれてありがとう」 
そんな気持ちを込めて念入りに磨いた。 
母も姉も必死に墓を磨く俺を眺めて、何故そんなに一生懸命に磨くのかと不思議そうにしていた。 
俺は母と姉の二人にも掃除道具を渡し、墓磨きに協力してもらった。 
心なしか、親父の笑い声が聞こえた気がした。

その後、俺たちは家族でレストランに入った。
久しぶりの家族団欒だった。 

食後に俺はトイレに入った。入り口を開け、トイレの中に入る。 
そこはビルの屋上だった。 
驚いた俺は周囲を見渡す。 
俺の視線の先には、あの騒動の本丸の男が、フェンスに寄りかかりながらタバコを咥えていた。
「よお」 
気軽な挨拶をすると男は俺に近づく。 
「俺に近付くんじゃねぇ!!」
俺は怒鳴った。
「はは、怖いねぇ。そんなに怒鳴るなよ。なにも危害を加える気はねぇよ」
男は尚も俺に近づく。 
「なんのつもりだ!?いったい、何しに来た!?」 
怒鳴る俺を無視して、男は俺の眼前に立つと、思いがけない言葉を発した。
「事の顛末を知りたくないか?」 

「事の顛末だと?」
男は俺を嘲るように微笑んだ。 
「心配するな。あのオカマ社長の許可は取ってあるよ」 
男は俺の胸に拳を当てた。 
すると男の拳は何の手応えも無く、俺の体をすり抜けた。
「ほらな。俺からお前に何かすることは出来ないんだよ。 
 あのオカマにお前は完全にガードされているし、俺もあのオカマに能力の根源を握られている。 
 今の俺は、オカマに金玉抜かれた腑抜けなんだよ」 
俺は後ずさりをした。
「俺に何を聞かせたい?」 
男はどこからか椅子を取り出し、腰掛けた。 
「さっきも言ったろ?事の顛末さ。 
 どうして俺と妹がお前を狙ったのか。何故、殺そうとしたのか。 
 お前には聞く権利があるんだよ」
確証は無かったが、男に害意はないように思えた。 
確かに俺も、この騒動の動機と理由が知りたい。 
俺の心にある霧の正体が知りたかった。 
「分かった。なら聞かせてくれ。事の顛末を」 
「そうこなくちゃな。わざわざ、来た甲斐が無い」
そう言うと男は、タバコを地面に捨て足で揉み消した。 

「初めにお前に出会ったのは、お前がバイクで小樽に来たときだ。 
 確かツーリングだっけ?お前はそれをやりに来たんだ。 
 俺はたまたま小樽に用が有って来ていた。 
 その時、妹の奈々子がお前に目をつけたんだ。 
 何故なら、お前が奈々子にとって羨ましい存在だったからだ。 
 まるで光に群がる虫のように、奈々子はお前に惹き寄せられた」
俺は困惑した。 
「何故俺なんだ?俺の何が羨ましかったんだ?」 
「お前の中に、温かい家族の繋がりが見えたのさ。 
 それが奈々子には、心底羨ましかった。 
 俺たちの家族はな、言っちゃ何だが、クソの肥溜めそのものだった。 
 特に奈々子は生前、そうとうあのクソ親父に責められた。 
 口に出すのもおぞましいぜ。実の父親が娘を性の対象にするなんてよ。 
 しかも親父は極端なサドでよ。ひでぇもんだった。 
 だが、俺も人のことは言えねぇ。苦しむ妹を、見て見ないふりしたんだからな。 
 母親はとっくの昔に死んで居なかった。
 だから妹にとっちゃ、俺は唯一の頼りだったんだ。それを俺は見捨てた。 
 面倒臭かったんだよ、正直言って。俺にはどうでもいいことだった。 
 奈々子にとっては絶望的だったろうよ。アイツは一人で警察に行き、助けを求めた」 
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」 
俺は男の話を遮った。
「気持ち悪くなったか?そうだろうな。クソの肥溜めの話だ。無理も無い」 
男はポケットからタバコを取り出し、口に咥えた。 
さっきまで人を嘲るように笑っていた男の顔は、深海のような冷たい表情だった。 
話の内容よりも俺は、この男の表情に恐怖を感じていた。 

「いいか?続けるぜ?」
俺は無言で頷いた。なるべく男の顔を見ないように気を付けた。
「奈々子は警察に助けを求めたが、全て無視された。 
 親父はクソだが、精神科医としてはエリートだった。 
 警察にも協力していたし、署の幹部とも仲が良かった。 
 奈々子は対応した警察官に、人格ごと全てを否定されて追い返されたんだよ。 
 更に絶望した奈々子は、遂に精神を病んで、精神病院に入院した。 
 しかも、親父の病院にな。
 そこでも奈々子は酷い扱いを受けた。 
 警察に訴えた奈々子を、親父は許さなかった。 

 
 奈々子の担当の看護師に言いつけて、奈々子を毎日のように暴行させた。 
 信じられるか?それをやらしたのが実の父親なんだぜ? 
 そして奈々子は自殺した。どこからか持って来たロープで首を吊ってな。 
 そこで俺は初めて泣いたよ」
黙って俺は男の話を聞いていた。 
男の家族と俺の家族。まるで正反対の家族だった。
「奈々子は自殺した後、この世を彷徨い、俺の所に来た。 
 奈々子には才能はあったが、俺のような能力はなかった。 
 だから、俺に復讐の話を持ちかけたんだ。俺に協力しろってな。 
 勿論、それを俺は断ることも出来た。 
 だが俺は、奈々子が死んでから初めて気付いた感情に逆らえなかった。 
 俺は奈々子を愛していた。自分勝手な話だがな」

「俺は奈々子に協力し、親父と警察官、それと看護師を殺した。 
 俺はそれで奈々子が満足すると思っていた。 
 だがそれは違った。 
 俺は霊というものに対する知識を、中途半端に持っていたに過ぎない。 
 どんなに復讐を遂げても、奈々子はもう死んでいる。 
 俺の目の前に居る悪霊と化した奈々子は、奈々子であって奈々子じゃない。 
 ただの情念の塊だ。情念の塊が満足して消えることなんて絶対に無い。 
 俺は落胆したよ。
 親父も含めて3人も殺したのに、ただ奈々子の形をした悪霊が増大しただけだった。 
 そんな時にお前が現れた。
 ただの復讐の情念の塊だったはずの奈々子が、お前に魅かれた。 
 俺にとっては驚きだったよ。もしかしたら、と変な希望まで持っちまった。 
 だが、奈々子は死んでいる。普通の生き人とは一緒に居られない」 
「それで俺を殺そうと思ったのか?ふざけるな」 
「ああ、今思えば愚かもいい所だ。だが、俺にとっては希望だった。 
 お前と居れば、奈々子は奈々子として戻れるんじゃないか、とな」 
男の話に俺は納得がいかなかった。 
「ただ殺すだけなら、お前には何時でも俺を殺すことは出来たはずだ。 
 何故すぐにやらなかった?何故あんな回りくどいことをする?」
俺は男に問いただした。男の表情に変化はない。 
「単純にすぐに殺しても、霊はこの世に留まらない。すぐに消えてしまう。 
 苦しめて、追い詰めて、不条理を与えることで、霊はこの世に強い情念を残し、長く留まる。 
 お前には未来永劫、奈々子と一緒に居て欲しかった」
男の言葉に、俺は全身が震えた。 

「北海道から帰ったお前は交通事故を起こし、重症を負った。 
 あれも俺の仕業だ。
 お前の会社の人事部長の脳に侵入して、解雇通知を書かせたのも俺だ。 
 左腕の骨折だけ治りが遅かっただろ?あれも俺だ。 
 その他諸々。お前には色々、仕掛けたな」
俺は震える拳を押さえた。 

 
「殴っても良いんだぜ?そこで我慢するのは、元サラリーマンの悲しい性か?」
俺は男の左頬を全力で殴った。男は椅子から転げ落ち、地面に平伏した。 
「まあ、一発くらいは殴らせないとな…」
男はそう言うと椅子を元の位置に戻し、再び腰掛けた。 
俺は怒りで全身が熱くなっていた。 

「落ち着けってのは無理な話かもしれないが、話は最後まで聞け。 
 俺はお前に感謝しているんだ」 
「感謝だと!?」 
「最後にお前が奈々子と一緒に居たときの話だ。 
 あの時、俺はオカマの部下に押さえつけられ、床に平伏していた。 
 事の終わりを見届けろとオカマに言われ、俺はお前たちを見ていた。 
 あの時…、俺は眼前の光景に我が眼を疑った。俺は奇跡を見ていた。 
 ただの復讐の情念の塊だった奈々子は、そこには居なかった。 
 お前も見ただろ?あの奈々子が本当の奈々子だ。生前の頃の奈々子だったんだ。 
 アイツはただのか弱い女だった。あれが本当の奈々子の姿だったんだ。 
 俺は泣いた。奇跡を前に、俺は子供のように泣く事しか出来なかった。 
 最初は光に群がる虫のように、奈々子はお前に魅かれただけだった。 
 それが何時しか、本当にお前のことを好きになっちまっていたんだ」 

俺は震える拳を降ろし、黙り込んだ。
「お前も薄々気付いていたんじゃないか?」 
そう言う男の顔からは、深海のような冷たさが消えていた。 
最後に見たあの女の顔を、俺は思い出していた。 
気が付くと、俺の眼からは涙が流れていた。 
「泣いてくれるのか?」 
男はそう言うと静かに俯いた。 
「お前は優しい男だな。あんな事をした奈々子のために泣いてくれるなんてよ。 
 お前は本当にしぶとい奴だった。俺はお前の勇気に驚かされ続けたよ。 
 そして、家族の愛情に恵まれた、優しい男だ。 
 今なら奈々子の気持ちが俺にも判る。俺たちは愛情に飢えていた。本当にお前が羨ましい。 
 奈々子は生前、誰かを好きになることなんて一度もなかった。
 こんな形じゃなく、奈々子が生きている間にお前と出会えていたら…。 
 お前のように俺にも勇気があれば、こんなことにはならなかった」

俺は泣いた。あの女を思い、泣いていた。 
あの女は敵だ。あの女が俺に何をしたのかは忘れない。 
それでも、俺の眼から流れる涙は止まらなかった。 

男は椅子から立ち上がると、天を仰いだ。 
「俺も奈々子も、散々人を苦しめた。天国には行けねぇ。 
 奈々子も地獄に落ちたよ。アイツは生まれ変わっても、また辛い人生を送る。 
 でもよ…、もし、お前がアイツに再び出会ったなら…。その時は…」 
男は踵を返し、背を向ける。 
「…自分勝手にも程があるか…」
男は静かにうなだれる。
その背中には、悲しみが色濃く映し出されていた。 

俺は事の顛末を知った。俺には泣くことしか出来なかった。 
男とあの女の悲しい過去。俺の知らない家族の話。 
全てが俺の胸に突き刺さり、涙を溢れさせていた。 
俺はただただ悲しかった。 
「じゃあな」 
男はそう言うと、俺から離れていく。
「これから、お前はどうする気なんだ?」 
俺の問いに男は足を止める。 
「俺には初めから守護霊なんてものはいない。 
 自分の身は自分で守ってきた。 
 だが、俺はもう能力を封印する。 
 俺がお前を苦しめたように、今度は俺が苦しむ。 
 もう、お前とは会うこともねぇ。 
 俺の行き着く先は妹や親父と同じ所さ」

そう言うと男は、俺の目の前から消えた。 

俺はレストランのトイレに戻ってきていた。
トイレの洗面所で泣き腫らした顔を洗った。 
俺はあの男の言葉を思い出していた。
『俺の行き着く先は妹や親父と同じ所さ』 
あの家族に救いは訪れないのだろうか。 
一度人は道を外すと、元には戻れないのだろうか。 
俺は世の無常を感じていた。 

トイレから出た俺は、家族の待つテーブルに帰ってきた。 
幸せな光景。あの家族は、この光景を一度も見たことは無いのだろうか。 
俺の胸は切なさでいっぱいだった。 
「ちょっとぉ、なにボーとしてるのよ」
姉の声に俺は我に返る。 
「ああ、悪い。ちょっと考え事しててさ」 
「さっきから、あんたの携帯、鳴りっ放しだったよ。 
 なんか、出ても悪いかなぁと思って放置してたけど」 
俺は自分の携帯を見た。確かに5件も着信履歴が在る。 
相手はジョンの携帯だった。 
何の用だろうか。俺はリダイヤルした。
「もしもし。お兄さんですか?」 
「ああ、なんだ、ジョン?何回も着信履歴が入っていたけど、急ぎの用事か?」 
「いやぁ、俺がお兄さんに対して、急ぎの用事って訳じゃないんですけどね。 
 社長が今すぐ事務所に来いって」 
「社長が!?」 

俺は携帯を切ると家族に謝り、レストランを飛び出した。 
社長を待たせること程怖いことは無い。 


全力で走り抜け、俺は社長の待つ探偵事務所に辿り着いた。
「ご…御用件は…はぁ…はぁ…なんですか、社長…はぁ…はぁ」 
社長はタバコを灰皿に押し付けた。 
「はぁはぁ気持ちが悪い!先ず呼吸を整えろ馬鹿!」
俺の目の前に一杯の水が差し出された。 
「お兄さん、飲んでください」 
ジョンだった。 
「ああ…、ありがとう。ジョン」 
ジョンは優しく微笑んだ。 

ジョンのくれた水を俺は一気に飲み干し、呼吸を整えた。
「良いか?とりあえず、この書類に眼を通せ」
社長の差し出した書類を俺は見た。 
そこには『内定通知書』と書かれていた。
「これは…、なんですか、社長?」 
俺は唐突な書類の内容に戸惑った。 
「見て判らないか?お前を我が社に採用すると言っているのだ。 
 お前は未だに無職なのだろう?私がお前を雇ってやる」
社長の言葉に驚いた俺はジョンの顔を見る。 
ジョンは笑顔でサムズアップをしていた。 

「え!?いや、嬉しい!けど…。ど、どういうことですか、社長?突然で…」 
「戸惑っているのか?」
社長は妖しく微笑む。 
「実を言うとな。お前の敵だった、あの男に頼まれたのだ」 
「あの男に!?」 
俺は驚いた。あの男が社長に頼みごとを? 
「私も驚いたよ。
 我が社の口座にいきなり1000万円も振り込んで、お前を雇ってくれと頼み込んできた。 
 せめてもの罪滅ぼしとでも思ったのか。それともお前が気に入ったのか。 
 1000万円もあれば、どんなペーペーでも一流に育つ。 
 私は快諾したよ。その気持ちを受け取るかどうかは、お前次第だがな」
俺は迷うことなく、「御願いします」と言い頭を下げた。 
「お前には霊能の才能が欠片しかないから、探偵として雇うことになる。 
 言っとくが、甘くは無いぞ。覚悟しておけよ?」 
そう言うと社長は微笑んだ。ジョンも笑っていた。 
俺は探偵として生きていくことを決めた。 

俺の物語はここで終わる。
探偵として歩み始めた俺には、様々な出来事が起きる。 
でも、それはクライアントの物語。 
守秘義務の関係上、これ以上は書けない。 

あの騒動で俺は強くなった気がする。 
今でも時折、あの女のことを思い出す。 
あの女は、今もどこかで苦しんでいるのだろうか? 
もし、再びアイツと出会ったなら…俺はその時…
アイツを助けてやりたいと思う。



great_com1000 at 18:36│Comments(0)厳選★怖い話2009 

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つきまとう女【中編】お札の家